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コラム

自由(じゅうよう)のご守護

人様の身上や事情につけ、自由のご守護を頂きたいとは、ようぼく総ての願いだよね。頂ける時もあるけど思うように頂けない事もあるところに、用木として苦悩があるんだよね。どうすれば、守護いただけるんだろうかと、真剣になればなるほど、色々と心をくだくよね。

泉田熊吉は、熱心におたすけに回っていました。しかし、道は容易につきません。心が倒れかかると、我と我が心を励ますために、水ごりを取りました。厳寒の深夜、淀川に出て一ッ刻ほども水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭いを使っては効がないと、自然に身体が乾くまで風に吹かれていました。

水に浸かっている間はさほどでもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間ほどこれを続けました。

又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに回らせて頂きました。

こういう頃のある日、おちばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」

と、お言葉を下さいました。親心溢れるお言葉に、泉田熊吉は、かりものの身上の尊さを、身にしみて納得させて頂いた。

人を救ける心というのは、我を忘れ、ただ一筋に救けさせて頂きたいという、真実誠の心に親神様が乗ってお働き下さるんだよね。どんな珍しい救けもお見せ下さる事で、我々の身もまた救かる喜びをお与え下さるんだよね。

いついかなる時にも、誠真実に徹すれば、必ず救けて下さるんだから、救からない時は、こちらの誠真実が足りないんだ。自分が、常にこれに徹し切れているや否かなんだ。

ボクたちは、この心になり切るようにつとめいても、人間思案のしがらみに、とらえられてしまうと、これぐらい努めているんだから、こんな事ぐらいと、つい神一条に徹し切れてないゆるみが出てしまうんだ。