カテゴリー
コラム

結婚

今回は結婚について談義してみようと思うんだ。

教祖の三女おはるさんと、櫟本村の梶本惣治郎さんとの縁談がまとまり、教祖は婿殿「心の美しいのを見て、やる」と、めでたく整いました。

仲むつまじく、子供たちも六人あげられましたが、最後の男子を、産むなり死ぬなりやったと言われますように、永眠されました。

教祖は、おこしになりましたが、御くやみも申されず、惣次郎さんのなげかれているのをご覧になって、おっしゃったのは、

「神様がな、のぞみ通りにしてやったのやで、嘆くことはあるまいがな。とおっしゃるで」と、繰り返し〳〵、お聞かせになったのです。

このわけは、前年、櫟本の祭礼がありまして、親族を招いて、酒盛りをされた時、些かの事で、客に不体裁になりましたところから、夫婦で、一寸、どうやこうやと、物言いをされた時、何分、一杯機嫌の時ですから、惣治郎さんが、言いすぎました。

「かじやの如きが、お地場の娘さんとは、性が合わん、勿体ない、いんでくれ」と申されました。

親族も居られた事ですから、中へ入って、まあまあと双方をなだめて、治まったのでしたが、神様のお話に「あいそづかしや、すてことば、切口上は、おくびにもだすやなで」と戒められたのは、ここの事で、いんでくれ、とおっしゃった言葉が、はしなくも、神様の受けとりなさるところとなって、神様の方へ引きとられて、のぞみ通りにしてやったでと、こうしたお言葉をいただかねばならんようになってしまった、と伝えられています。

考えてみよう。男女の間ではよくあるところだよね。

二人の人間が、身も心も一心同体となって社会生活を営むのが結婚だよね。それに至る道中として、恋愛中には、少しでも互いに自分をよく見せようとつとめるよね。とう言うことは互いの現実の姿を知るのは結婚後って事だよ。感激もあるかもしれない、また失望もあるかもしれない。見合いもまた同じで、結婚前に徹底的に相手を知る事は、いずれにしても難しい事みたいだね。

二人の相互理解、寛容、譲り合いがあってこそ、いつまでも幸福でいられるポイントなんだと思うよ。

夫が六で妻が四の場合、またその反対の場合、常に2人加えて、十と考える事が、天の配剤であるから、どっちがいくつ譲るかって事だよね。