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コラム

子供の反抗

我が子であれ、理の子であれ、子供可愛い一ぱいの親の心に、素直にそってくれる事が、何よりの親の願いだよね。

でも、親の思いと、子供の思いとのすれ違いから、とかくゴタゴタするのが世の常だよね。

元治元年(一八六四年)に始まった最初の神殿建築というべき勤め場所の普請にからみ、ちょっとした節がありました。すでに扇の伺いのお許しをいただいている人々が、五、六十人もありましたが、これを機として、すっきり寄りつかなくなってしまいました。

教祖は、少しもこれをお心にとめられず、

「わからん子供が、わからんのやない。親の教えが届かんのや、親の教えが末々までとどいたなら、子供の成人がわかるであろう」と思召して、より来た人には十遍でも二十遍でも、愛想つかさず、くり返し、くり返し、親切におとき聞かしてくださいました。

 長男であられる秀司様は、仰せ通りにすれば、教祖の身にご苦労が及ぶ、何とかこれを避けて通る道はないものかと、あれやこれやと心を砕き、思召しに沿わない手段も選ばれました。

最後にとられたのは、金剛山地福寺の配下となって、転輪王講社を作り、人々が自由に参拝する事も出来、教祖にも法が及ばないようにとの手だてでした。

明治十三年九月二十二日 転輪講社の開式の時、門前で大護摩を焚いていると、 教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お座りになって、ちょっとの間、ニコニコとご覧くだされていたが、直ぐお居間へお引きとりになられました。

かねてから 地福寺への願い出については、「そんな事すれば、親神は退く」

とまで仰せになっていたんだ。けど、そのお言葉と 「たとい我が身がどうなっても」 一命を賭した秀二の真実とを思い合わせる時、教祖のご様子に、限りない親心の程がしのばれるんだよね。

しかし、教祖の思召しは、あくまで神一条への徹底であったと思うんだ。