年老いた夫婦が、むつまじく、いたわり合う姿を端から見ると、ほほえましくも又、望ましい絵図だと感じ入るよね。でも、そこに至る道すがらには、いろいろの紆余曲折があると思うんだ。
もしかしたら、夫婦の間に、いざこざが起きて、互いににらみ合い、一日も二日も、物も言わないような事もあったかもしれない。
おやさまは妻のあり方について、
「どんな男でも、女房の口次第やで。阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえりなさい、と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、 阿呆やと言うけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っている所を見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の一つやで」
と、教えてくださいます。
男性に対しても、
「あんたは、外ではなかなかやさしい付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」 と仰せられています。
先人の言葉より。
今までも、手を合わせて、おがむという事は、教えてあると仰有るが、今までの信心は、手を合わせるまでの信心で、その理がわからん。此の度は、その理を教えてくださる。どういう理なら、五本の指を合わせて、五分五分という。五分五分というは、夫婦の中も、互いにたてあうという理である。
それ、もちつ、もたれつ、たておうたら、たすかるにちがいない。
女房が夫を尻にしく、夫が女房だからというてふみつけにして、わがままをつのらすというようでは、立て合いではない。
いくら、手ばかり合わせておがんでも、なんにも、うけとる理はありゃせん。手を合わせる理の通り、日々心合わせて、五分五分に理を、立て合うという理がなくば、これ、信心にはなりゃせんで。
夫婦は、天地だき合わせの世界の、地と天とをかたどりてあると教えて頂くよね。
天は水、地は火、男は水、女は火、火がつのれば焼けねばならないし、水がつのれば物が腐るよね。大事なのは、いつも程よく五分と五分、これだと内々のむつまじさが現われて来るんだよね。