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コラム

なるほどの人

なるほどの人にはどうしたらなれるんだろう?

大和国永原村の岡本重治郎とその妻シナさんは、長男の熱病のお救けを頂いて、熱心に信心するようになりました。

近所の豪農から、長男が生まれたが、乳がなくて困っているので、何とか世話願えないだろうか、との依頼がありました。

その頃、あいにくシナさんは、お乳が出なくなっていたので、お断りしましたが、たっての事なので、思案に余って、すぐお屋敷に向って、おやさまにお目にかかってお伺いすると、

「金がなんぼあっても、又、米倉に米をなんば積み上げていても、すぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない」

と仰せになりました。その時シナさんは、よく分かりましたが、私は、もうお乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話出来ましょうかと、更に伺いますと、

「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで」

とのお言葉をいただき、神様におもたれする心を定めて、お世話させて頂く旨の返事をいたしました。

月足らずの子供で、やせ衰えて、シナさんが抱き取ったが、乳は急に出るものではあり ません。

しかし、そうしているうちに、二、三日経つと不思議と乳が出るようになって来ました。 そのお陰で、預かり児は見る見るうちに元気になり、順調に育っていきました。

その後、シナさんが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、おやさまは、その児を抱き上げ下されて、

「シナはん、善い事をしなはったなあ」

と、おねぎらい下さいました。

シナさんは、おやさまのお言葉にしたがって通るところに、親神様の自由自在をお見せ頂けるのだ、という事を、身に染みて体験しました。シナさんが二十六才の時のことであったとお教え下さいます。

「それ世界成程という。成程の者、成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」とは、我々ようぼくの心の根幹だよね。

口と心と行いと、常に一致して、何でも救けさせて頂きたいとの、我を去り欲を忘れた心の人が、成程の人なんだろうね。

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