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コラム

信仰への歩み

みんな。唯物的世界観って知ってる?世界を構築しているものの根源は「物質」であるという考え方なんだ。そういう唯物論者からみたら、信心とは、年寄りの寝言ぐらいにしか思わないかもしれないね。それはそれで唯物的な考え方の信者といえるよね。

でもこのように世の中の出来事が簡単に割り切れるならば、こんな結構なことはないんだけど、理屈どおりに運ばないところに問題があるんだよね。

文久三年、桝井キクさん三十九才の時のことでした。夫の伊三郎さんが、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか直りません。キクさんは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんど無いくらいでした。けれども、どうしても直りません。

その時、隣家の矢野さんから、「おキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きだったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」

とすすめられました。

目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おちばへ駆け付けました。旬が来ていたのでしょう。

キクさんは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、

「待っていた、待っていた」と、可愛い我が子がはるばる帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下さいました。それで、キクさんは、

「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と、申し上げると、教祖は、

「あんた、あっちこっちとえらい遠回りをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」

と、おうせられてやさしくお笑いになりました。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、

これこそ本当の親や」と、なんとも言えぬ慕わしさが、キクさんの胸の底までしみわたり、強い感激に打たれた。と教えて下さいます。

教祖の教えは世間でよくある、あの世での幸せを祈る教えでもなければ、我々自身の罪をくいる教えでもないよね。この身のままで、この世において陽気ぐらしの出来る教えなんだよね。心一つの持ちようでこの世こそ、極楽世界であると、日々生を楽しむことのできる教えなんだよ。