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いんねん納消の道

ボク達は、前生からのいんねんを背負って、この世に生をうけているんだよね。自分の持ち越しは、父母のあり方、祖父母の通り方を考えれば、その一端はつかむ事が出来き、自らを引き締めることが出来るよね。

左記は先人のことばだよ。

同じ人間というても、豊かな者もあれば、難儀な者もある。上を見てもきりはない。又、下を見てもきりはない。これ皆、前生のいんねんでなること。すれば、どういうことでみなけっこうも、皆めい〳〵下を見て、日々、これで結構とたんのうするが第一。皆めん〳〵たんのうして、また人にもたんのうさすようという。人には腹を立てささぬよう。人のよろこばぬ事、人のいやがる事少しもせぬよう。又言わぬよう。あの人はよい人や、あの人のいう事はかどがない。あの人のする事は皆まるい。あの人のようでなくてはならんと、人に思われ、人によろこばれ、世界皆、満足してくれる。これを人にたんのうさしたというであろう。

と戒めているんだよね。

堺に昆布屋の娘がありました。手癖が悪いので、教祖に伺ったところ、

「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや」と仰せられました。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかなど守護を頂いたと伝えられています。

自分には分からない前生のいんねんも、たんのうによって、切って下さるんだ。

明治十四年頃、山沢為造さんが、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで」

と、かようなお言葉で、お聞かせ下さいました。前生のいんねんや、また銘々のほこりの焦げ付きからのいんねんが現れても、少しも狼狽しなくていいんだよ。ボク達は、成ってくる理を楽しみつつ、少しでも人をたすけることによって、必ず納消して下さるって事なんだから。

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自由(じゅうよう)のご守護

人様の身上や事情につけ、自由のご守護を頂きたいとは、ようぼく総ての願いだよね。頂ける時もあるけど思うように頂けない事もあるところに、用木として苦悩があるんだよね。どうすれば、守護いただけるんだろうかと、真剣になればなるほど、色々と心をくだくよね。

泉田熊吉は、熱心におたすけに回っていました。しかし、道は容易につきません。心が倒れかかると、我と我が心を励ますために、水ごりを取りました。厳寒の深夜、淀川に出て一ッ刻ほども水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭いを使っては効がないと、自然に身体が乾くまで風に吹かれていました。

水に浸かっている間はさほどでもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間ほどこれを続けました。

又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに回らせて頂きました。

こういう頃のある日、おちばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」

と、お言葉を下さいました。親心溢れるお言葉に、泉田熊吉は、かりものの身上の尊さを、身にしみて納得させて頂いた。

人を救ける心というのは、我を忘れ、ただ一筋に救けさせて頂きたいという、真実誠の心に親神様が乗ってお働き下さるんだよね。どんな珍しい救けもお見せ下さる事で、我々の身もまた救かる喜びをお与え下さるんだよね。

いついかなる時にも、誠真実に徹すれば、必ず救けて下さるんだから、救からない時は、こちらの誠真実が足りないんだ。自分が、常にこれに徹し切れているや否かなんだ。

ボクたちは、この心になり切るようにつとめいても、人間思案のしがらみに、とらえられてしまうと、これぐらい努めているんだから、こんな事ぐらいと、つい神一条に徹し切れてないゆるみが出てしまうんだ。

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事情の解決

中山家のお手伝いに、おかのというちょっと垢抜けた女性がいたんだけど、夫様とこの女性の中はだんだん村のうわさの種となって来たんだ。

村の庄屋が、見かねて教祖に、いろいろこの事について進言した時、教祖は、「それはおそらくは、世人のかげうわさと思います。私は日常主人の側に居りますから、私の方が、その辺の見分けはたしかかと存じます」と仰せられているんだ。

庄屋は、ああ、中山の御新造はよく出来たお方や、普通であれば、若い身空で、夫の不行跡を見聞きすれば、怒り夫にせめ寄るか、嫉妬に狂うかであるのに、あの貞節さは、神も仏も及ばぬところと、心から感嘆したんだ。

教祖の、深く夫を愛し、厚く信じられる真心は、よく自省に徹せられ、かえって自分の不徳の致すところであるとさんげなされ、おかのに対しては、自分の不徳を補ってくれる者として、肉親の妹に向かうような慈しみの心をもって、接しられていたんだ。

二人の中は、だんだん公然たる態度となり、時々連立っては、名所見物に外出されるようになったんだ。こんな時にも、教祖は、少しも嫌な顔をされず、立派な自分の晴着を、おかのに着せ、櫛かんざしまでそろえて、その髪を結んでやられ、万端の準備を整えて、夫様を機嫌よく見送られたんだ。

おかのの増長は、遂に自分がその後室に座ろうとの邪念を起こし、ある時、教祖の味噂汁に毒薬を混ぜたんだ。教祖は顔面蒼白となられ、はげしく嘔吐下痢をなされたんだけど、お介抱が行届いて、間もなく正気づかれたんだ。教祖は、おかのの悪だくみということにお気付きなったんだけど、

「これは神や仏が、私のお腹を掃除をして下さったのです」 とその後も相変わらず、おかのに物優しく親しまれたんだ。流石の、おかのも、良心の苛責に堪えられなかったとみえ、ほどなく、自分から暇をもらってわが家に帰り、心改めて真人間となり、永く中山家へも出入りさせていただいたと、伝えられているんだ。

因縁よせて守護下さる夫婦は鏡の立て合わせと一緒とお聞かせ頂くよ。お互いに互いを見て、因縁の自覚と納消に心掛けることは大切な事だよね。

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さんげ

中山コヨシさんが、夫重吉さんのお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなられたんだ。それで、飯降おさとさんを通して伺うてもらうと、教祖は、

「コヨシはなあ、 先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ」

と、お言葉を下されたんだ。

これを承って、コヨシさんは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が元通りハッキリ見えるようになったんだ。

さんげとは、真の心から、本当にそうであったと気付く喜びの心から出た、 さんげじゃないといけないんだ。

そして、ただ、悪かった、すまなかったと、言うだけではなく、その理をよく守って、親神様の仰せどおりに、通ることが大事なんだ。

 そして、今日まで通ったお詫びだけではなしに、将来の心定めをする事もね。

 心さえ、さんげして、立て替えたら、どんなものでも、皆たすける。これまでのことは、大難は小難として、皆ゆるしてやると、教えて下さっているんだ。

そしてもう一つ、さんげには、前生いんねんのさんげという事があるんだ。

いんねんの理は、世上世界にどんな事情も出してある。世上の理を見て、たんのうの理を始めるが、前生いんねんのさんげとも言う。

身上不足ある中に、たんのうは治められようまい。なれど、しんの心に、いんねんさんげという誠心治まるなら、こら受取らにゃならん。信しているのに、なぜやろうという心は出さんよう、ようききわけ。

実は、たんのうこそ、身に何の覚えもない前生いんねんのさんげです。

考えて見れば、僕たちって、日々のさんげに、追われるのが精一杯で、前生にまでは、なかなか心およばないよね。

思うんだけど、さんげって難しいと考えず、日々成ってくる理をたんのうして通っていれば、少しずついんねんは納消されていくってことだよね。

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真の陽気って何?

やあ、みんな。陽気って何だろう? お道では、明るく、勇んだ心、これを陽気と教えられるよね。飲んで、歌って、踊って、一時は心明るく勇みかもしれないけど、その後には、ほろ苦いものが残るんだよね。それは陽気じゃなしに沈んだ心だよね。

豊かな財宝にかこまれると、満ちたりた喜びにつつまれるかもしれない。そして更に豊かさを求めて、あくせくする。でも、その基である豊かさがなくなれば、明るかった心も、まっ暗になるよね。

みんな、こんな経験ない? ほしい、ほしいと思っていた物を、やっと手に入れたとするよ。当初は心も明るくうれしいよね。でもしばらくすると、あれほど喜んだ物にも欠陥が目立ちはじめる。こうして、手に入れた瞬間から、すでに空虚さが生まれてくるんだよね。

陽気というものは、こんなよろこびではありません。

真の陽気は、何の不安もなく、日々なってくる所、現われてくる理に、常に導いて下さきらむやがみさま打やごころよろこたことにちる親神様の親心を喜びつつ、更にこれを他に伝え、たすかってもらう事にいそしむ日々に、自らわれてくるものです。

ある日のこと、西浦弥平さんが、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に床下で、コトコトと音がする。「これは怪しい」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、貴貴重な品々を包ん大風呂敷が残っていた。

弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お参りして、「お陰で、結構でございました」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、

「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」

と仰せになった。弥平さんは、そのお言葉に、深い感銘を覚えた、と伝えられます。

真の陽気へのヒントは、この辺にあると思うんだ。

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おやさまの手足とは

おやさまの手足になるにはどうすればいいのだろう?

座骨神経痛のため自由を失い、激しい痛みにおそわれていた村上幸三郎さんの、おたすけいただいた感謝の気持ちは、しぜんと足をおぢばへ向かわした。

教祖にさっそくご恩返しの方法をお伺いしたところ、

「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を助けて行く事がご恩返しやから、しっかりおたすけするように」

と仰せられた。

教祖の手足である僕達ようぼくのつとめは、人だすけだよね。

これは教会従事者だけのものじゃないよ。広く、全ようぼくが、これにふるい立つのが、成人の旬なんだ。

そして、親神様のご守護の理合い、ほこり、いんねんと、今一度思いかえすのが、その台となるんだ。

目を患う加見兵四郎さんが、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰って来た。

教祖は、まず、「さあ〳〵」と仰せあり、

それから総二時間にわたって、元初まりのお話を承った。その間の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピリと震動したほどであった。そのお言葉がすむや否や、はっと思うといつとなく、なんとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女の目も鮮やかにご守護頂いていた。

しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までというものは、ボーッとして遠目は少しもきかず、どう思案してもご利益ない故に、翌明治十九正月に、またおぢばへ帰って、お伺い願うと、「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしというのは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。どうでも、人を救けたい。救かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで」とのお諭しを頂きました。

その後、兵四郎さんは、たすけに奔走するうちに、自分の身上もスッキリお救けいただかれたんだよ。

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変わる人生

今の時代って金や物につつまれ不自由なさそうでも、毎日を孤独感にさいなされている人が実は案外多いものなんだ。

総てを解決してくれると信じていた金や物も、これのみでは、充実した人生ではなかったと言うことだよね。

裕福ではなくても、よき家族にとりかこまれながら、和やかに、食膳をかこむ楽しさに人生の何とも言えぬ喜びがあると思うんだ。

人間には、自分の力や金だけが唯一の頼りであり、自分の腕で世渡りしているという我があるんで、うまくゆかぬ時には、先案じてみたり、あせり、もがきもをするけど、これって実は無駄に近いと思うよ。

己が力、己が腕、己が知恵を、過信することは傲慢であり、あさはかな生活態度ってことだよね。

世間一般の生活と、お道の生活との大いな違いは、神様に生かせていただき、思召しに沿って、すべてを親神様におまかせするという姿勢だよ。それって、何だか弱く頼りないように映るかもしれないけどね。

おやさまは、

「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の山に上って、結構なものを頂くことが出来る。

けれども、途中まで行くと、橋杭が無いから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。

けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。

山の頂上に上れば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで」

とお聞かせて下さっているよ。

心の芯を、何に求めるかによって、その人生は一変するよね。

親神様の教えは、自分のみの心を治め、清らかにしていれば、それでよいって事じゃないよね。

このよろこびを、更に他の人々に伝え、分かつことによって、他の人々の心を明るくし、たすけるところに、自ら、より高い人生となるって事だよね。

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おやさまが、いつも聞かせて下さったお話だよ。

「世界中、互いにたすけ合いするなら、末の案じも、危なきもない。奉公すれば、これは親方のものと思わず、陰日向なく、自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、むしろでもなんでも、始末せにゃならん。陰日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら、襦袢をこしらえてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、陰日向なく、自分の事と思うて働くから、あの人は、如才ない人であるから、あの人を雇うというようになってくる。こうなってくると、なんぼでも仕事がある」

親への孝心と、家業への丹精、この二つを心に治めて、実行するとどうなるでしょう?その土地所の手本雛形となれるんだ。それは、めいめいの喜びだけでなく、広くお道のにおいがけとなり、人々の心をも明るくして、どれだけ世の為になるか分からないよ。将来に、結構な徳を頂くことは間違いなしだよ。

僕たちがご先祖から、親から頂いた徳は、多ければ多いほど結構なことだよね。でも、気をつけてよ。これのみを、当てにしていては、いつしか、徳切れの姿となるんだ。だから、あくまで、先祖から、親からの徳は、プラスアルファの予備費として置いておいて、自らの徳は、自らの手で積んでおくべきなんだ。

おやさまは、山中こいそさんに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか、どちらやな」と仰いました。こいそさんは、「形あるものは、失うたり、盗られたりしますので、目に見えん徳いただきとうございます」と答えられた。

みんなそれぞれの活躍の場所はちがっても、人をたすける心に徹しきれば、目には見えないが、大きな徳となって身について来るんだ。

この徳こそ、たすけ一条の上に、また、社会における地位ともなり、財力となり、真の幸福につながって行くものなんだね。

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いんねん

みんなは、いんねんという言葉を聞くと、どんな印象を受けるかな?罰を与えられるとか、また恐怖の心を起こす人もいるみたいだね。

いんねんというは、前生ばかり、いんねんというやない。悪きばかりが、いんねんやない。この世でも、十五才よりこのかた、してきたことは、よきも、あしきも、皆いんねんとなる。又、前生よき事してあれば、いんねんとして、この世で現われるか、次の世で現われるか、必ず現われんということはない。あしきこともその通りなれど、よきいんねんは、皆一れつよろこぶ事ゆえにすぐと現わし、すぐとかやしてくだされる。

増井りんさんが、ソコヒのご守護をいただいて、おぢばへお参りした時、おやさまは、

「さあ〳〵一夜の間に目がつぶれたのやな。さあ〳〵いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。ようきた。ようきた。」

と仰せられ、更に、

「神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。手をのけたら、すぐ見える。見えるであろう。さあ〳〵勇め、勇め、難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めん〳〵の心次第やで。」

心さえすっきりと掃除が出来るなら、どんないんねんが現われて来ても、それを静かに見つめ、何の不足も言わず、ただ自分の心をいましめて、導いて下さる親心を感謝し、常に満足する心となって通れば、日々に明るさが出て来るんだね。

とりあえず、何事につけ、「有難い」と、心を明るくしていれば、どんないんねんが現れてもも、それが皆、心のふしんの糧となって来るんだね。

これこそ、ゆるぎもない安住の境地、真にたすけていただいた姿なんでしょうね。

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かしもの

僕達の身体の中で血液はいつもグルグル循環しているよね。そして、回ってきた血液から栄養や酸素が細胞に配られ、細胞のいらぬ物は血液に返されるんだ。また血管のないところのリンパ液や、又は、脳や脊髄を保護する髄液も同じようにグルグルまわっているんだ。

.こんな感じで僕達の身体は本当に、神秘の扉の中につつまれているよね。

でも僕らって、自分の手、自分の足と考えるよね。でも本当に自分のものなら、身体は自分の思い通りになるはずだけどならない。自分のものなのに、指一本でも、ご守護がとまればどうなる? そう、自由がきかなくなるよね。

自分のものだけど、自分の思い通りにならない。ご守護あってこそ、自由になるこの身体を、親神様からのかりものと、教えられているよね。

身体のぬくみも、水気も、皮つなぎも、骨つっぱりも、飲んだり、食ったり、入ったり出したり、みな神様からのかりもの働きだよ。

親神様の思召しにそった使い方をしていれば、五体は健全なんだけど、思召に反する使い方をすると、病気が起ったり、不時災難にあったりするんだ。

人間って、自分の力で世渡りしていると思う我があるよね。だから、うまくゆかぬ時に、先案じしたり、あせり、もがいてしまうんだ。

そうじゃ無いよね。自分の力で達者になれないし、自分の腕で幸福にもなれない。思召しに添うと親神様のお力で、ベターにして下さる。どんな場合でも、ただ親神様の心にかなうようにつとめればOKなんだ。

人間は、自分の知恵や力によって生きているのではなく、親神様によってつくられ、生かしていただいているという事が、悟れたら、お互い、けっこうな身上をかしてもらい、色々考えたり、仕事をしたり、毎日を無事に暮らせることの有難さが身にしみてくるんだ。

そして、呼吸一つにも、しみじみとご守護を感じれて、生活が一変して、何でもよろこびの日々、感謝の日々、大きな安心につつまれた日々となって来るんだ。