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孝行

若奥様としてのおやさまは、日中は忙しくは働かれ、どんな疲れた時でも、夕食を終えた後は、ご両親の、あんま、足もみをして、お喜ばしになり、ご結婚以来、ご両親に一度として不快な顔色をされることなく、いつも大変素直に、お通りになられたんだって。すごいの一言につきるよね。

また23才の九月頃より、御妊娠なされた教祖は、その翌年の晩春、臨月近い御身でありながら、病気中の姑様を背負って、屋敷内はもとより近所の縁者先まで、望みを満たして、病母をいたわる事に、心を配られたんだ。

おやさまの道すがらは、時代は変っても、いつまでも我々のたどるべきお手本なんだよね。「親となり子となるには、因縁事情から成りたるもの、この親に孝行せず、親という理を忘れ、親に不幸すれば、今度の世は、何になるとも分りがたない。この理を話して伝えおこう」と教えられているよね。

柳井伊三郎さんの母キクさんが、次第に重く、危篤の容態になってきたので、夜の明けるのを待ちかねて五十町の道のりを歩いてお屋敷に帰り、おやさまにお願いすると、「せっかくやけど、身上救からんで」と、仰せになりました。他ならぬおやさまの仰せですから、「さようでございますか」と、そのまま引き下って家に帰りましたが、苦しんでいる母親を見ていると、「どうしても救けてもらいたいなあ」という気持で一っぱいになりました。

再びお屋敷へ感って御願いしたところ、やはり感じお言葉。斯くして三度、又とぼとぼと、お屋敷についた時には、おやさまは、もう、おやすみになったと聞いたのに、更にお願いしました。

すると、おやさまは、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」

この有難いお言葉をいただき、キクさんは救からん命をたすけて頂き、八十八才まで長命さして頂きました。

実の親子、理の親子も同じだよね。「親への孝行は、月日への孝行と受取る」と示されているんだもんね。

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真実は通じる

数年前に、「勤務場所で段々取り残されるし、面白くないので、その職場を去りたい」と嘆いている人の相談にのった事があるんだ。だから僕は言ったんだ。「たとえ陽の当らぬ場所にあっても、常に、誠真実をつくす事が、良い展開への基礎なんだから、誠の心が大事だよ。」って。

このアドバイスが効いたのか、その後、顔には明るさが生れ、最近は、陽もさしかけているようなんだ。

僕たちの人生には、必ず陽の当る時と当らない時があるものだよね。うまく行かない時でも、与えられた仕事に、誠真実をつくす事が、事態を好転せしめる唯一の道だし、人の心を貫く道なんだよ。

まことというは、口と心と手と、この三つがそろうて、真のまことという。日々のすること、なす事が、口で話したことと違うから、世界から、それ、あの人は、口先ばかりうまい人や、いう言葉だけは、まことのようなれども、などと言うて、それ、話の理を用いてくれぬようになる。

そこで、口と心と、手と、そろうて人々より、ああ、なるほどの方やなあ、どうも感心な人やなあ、たのもしい人やなあ、と言われるであろう。

おやさまは、

「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦が無くなるという事である。栗のイガは剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで」と教えて下されているよね。

僕たちは、自分を振り返って、考えれば考える程、イガや渋が多いよね。

一つ一つこれを取り去って、神様の思いに近づくことが、成人の道であり、困難を切り開く道なんだよね。

たとえそれは、弱々しいように思われるかもしれないけど、結果的には、誠は、他を感化し、一家を睦まじく治め、広く世間に、親神様の理を映す事になるんだよね。